「動かぬ子 強く抱く」 戦後最も新聞が必要とされた日

東日本大震災翌日、河北新報の記者が気仙沼に入ったとき、目の前には地獄が広がっていた(以下『河北新報のいちばん長い日』より引用)。

 

ゆっくり車を進めていると、倒壊した家の裏から出てきた数人の男性に呼び止められた。三十代とみられる一人がオレンジ色の毛布でくるんだ塊のようなものを抱いている。

 

「後ろの座席を倒せ。避難所の階上中まで乗せていってくれ」

 

丹野が一瞬戸惑っていると、「早くしろ!」と怒鳴られた。初対面の人に物を頼む態度ではないだろうとムッとしたが、勢いに押されて言う通りにした。

 

座席で男性は涙を流しながら、塊に向かって「寒くないか?」と小声で声を掛けていた。

 

塊は子どもの遺体だったのだ。

丹野は先程腹を立てたことを後悔した。そして「記者として話を聞かなければ」と咄嗟に思い、それとなく子どもの年齢を尋ねた。

 

「何であんたにそんなことを言わなきゃならねえんだ」

それ以上、問い掛けをすることができなかった。

 

階上中に着くやいなや、男性は体育館に駆け込んだ。武田俊と後を付いていった。

 

男性は医師に遺体を見せていた。毛布がはだけ、顔がのぞいた。男の子か女の子かわからない。眠っているようでかわいらしかった。胸元にチューリップの形の名札をしていた。幼稚園だろうか、保育園だろうか。

 

医師は目を開いて瞳孔を確かめている。厳しい顔つきで何かを告げていた。男性は子どもの体を強く抱いて顔をうずめた。

 

目の前の現実を受け入れることができなかった。死んだ子どもを目にしたのが初めてだったせいもあるのだろう。隣で武田俊が目に涙を浮かべていた。

 

「俺にも同じ年ごろの娘がいて、他人事とは思えない」彼に掛ける言葉も見つからなかった。

(引用終わり)

東日本大震災翌日の河北新報1面
東日本大震災翌日の河北新報1面

この本には、自身も被災者でありながら、地元紙として一日も休まず、新聞を作り、輸送し、配達した河北新報の苦闘が描かれています。

 

記者は、あまりの惨状に迷い、葛藤しながらも記事を書き続けました。

 

新聞輸送トラックは、道路が寸断され、信号もない中をさまよい、販売所まで新聞を届けました。

 

新聞販売所は、販売所長や従業員に犠牲者を出しながら一部一部新聞を届けました。

 

電気やインターネットが繋がらず、何の情報も入ってこない中で、新聞だけが唯一の情報伝達手段でした。東日本大震災直後の被災地は、戦後最も新聞が必要とされた場所でした。

あれから6年・・・私たちは東日本大震災から何を学んだのでしょうか?それは、「起こり得る最悪の被害を想定し、事前の準備を整えておく」ことです。「想定外」という言い訳はもう通用しません。

 

非常食、防寒対策、災害品の備蓄といった自分の身は自分で守る「自助」は当然として、新聞販売所として何ができるか?突き詰めた答えが、地域情報の発信でした。

 

非常時に、地域情報の発信を通じて地域の安全・安心を守る。そのためには、普段から地域にネットワークを広げ、情報収集・発信のノウハウを蓄積し、信頼されるメディアとして認知されていなければなりません。

 

道新りんご新聞は新聞折り込み、ホームページ、facebooktwitteryoutube、地域FMと、新聞販売所としては過剰なほどにマルチメディアで情報を発信しています。

 

現代は世代によって情報収集手段が大きく異るデジタルとアナログが並立した時代です。また災害時には、情報の発信手段が制約される可能性があります。複数の情報発信手段を確保しておけば、非常時にいずれかの発信経路を確保できる可能性は高まります。

道新りんご新聞の創刊以来、地域の防災情報を発信してきた平岸防災シリーズでは、地震や洪水などの地域の災害リスクや防災の取り組みを紹介してきました。

 

今年は、平岸まちづくり協議会と協力し、日本で初めての地域特化型防災マップ「平岸地区防災マップ」を作成しました。

 

地域情報の発信を通して地域の文化を支え、非常時には地域の安全を守りたい・・・そんな思いで創刊した道新りんご新聞ですが、ようやく少しづつ地域に撒いた種が実を結んできたように思います。

 

地域情報の発信こそ新聞販売所の使命であるという思いが、この平岸を起点として日本中に広がることを目指し、道新りんご新聞は今後も邁進いたします。

独自に作った防災マップを手にする中目明徳会長(2月7日北海道新聞朝刊22面より)
独自に作った防災マップを手にする中目明徳会長(2月7日北海道新聞朝刊22面より)