入植編

入植編では、明治4年の岩手県水沢から平岸への集団入植をクローズアップしました。水沢の歴史や現在の平岸とのつながり、また入植の背景や移住風景を紹介。さらに、開墾当時の暮らしぶりや、移住者たちのその後を追いました。

 

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第18回.水沢から平岸へ①(2015/3/1号)
平岸の開拓の歴史は、明治4年の岩手県水沢からの集団入植に始まります。先祖代々の土地を離れ、未開の土地へ移らざるを得なかった事情とはなんだったのでしょうか?水沢の歴史と移住の経緯について紹介しています。
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第19回.水沢から平岸へ②(2015/3/15号)
戊辰戦争で敗れ、家禄を失った水沢藩士たちは新天地を求め、札幌へ事前調査に入ります。当初、彼らが移住を決めていた場所は平岸ではなく、苗穂でした。しかしながら、水沢当主留守邦寧は、札幌への移住を寒冷な気候や病弱であることを理由に拒否。家臣たちだけで、移住することになります。
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第20回.開拓風景①(2015/4/1号)
北海道への移住を決めた水沢藩士たち一行は、函館~室蘭~千歳を経て、苦難の末、明治4年3月に平岸に入植します。当時の平岸は、うっそうとした原始林が広がる密林地帯であり、大木にさえぎられて太陽さえはっきりと拝めないほどでした。
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第21回.開拓風景②(2015/4/15号)
平岸へ入植した62戸の住民たちは、今の平岸街道を中心に東西に62区画に分け、くじ引きで開墾地を決めます。移住から3年間は、開拓使より米や味噌、農具、家具、開墾費など手厚い支給がありましたが、3年が過ぎ、支給が打ち切られると土地を手放す人が続出する事態となりました。
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第22回.移住者たち(2015/5/1号)
”偉人の町”として知られる水沢は、日本でも有数の知的レベルの高い町であり、平岸の移住者たちも多士済々な人材がそろっていました。平岸用水の開削や平岸小学校の建設を取りまとめ、平岸の基盤を整えた中目文平。水沢藩内で鉱山開発に従事していた吉川太左衛門は、その特殊技能を活かして、小金湯温泉を発見します。吉川太左衛門の息子鉄之助は、クラーク博士の教えを受けて洋式農法に取り組み、後に長沼村を開拓します。
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第23回.麻畑村(2015/5/15号)
平岸は開拓当初「麻畑村」の名で呼ばれたように、麻の栽培がさかんに行われていました。そのルーツは、水沢にさかのぼります。江戸時代、水沢産の麻で作られた「水沢漁網」は品質の高さから東日本一帯で使われていました。麻と平岸の関わりについて紹介します。
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第24回.黒田清隆とケプロン(2015/6/1号)
北海道の開拓は、開拓使長官黒田清隆とお雇い外国人のケプロンの手で進められました。彼らの構想は、北海道に欧米の技術を導入することで、一躍欧米並みの水準に達せしめようという壮大な計画でした。しかし、この計画は費用の割に成果が少ないということで中止に追い込まれます。
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第25回.本願寺道路①(2015/7/1号)
明治4年、札幌と道南地方を結ぶ最初の幹線道路が完成しました。伊達市尾去別から中山峠を経て、平岸に至るこの道路を作ったのは、東本願寺のお坊さんたちでした。なぜ東本願寺が北海道の道路を作らなければならなかったのか?その背景に迫ります。
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第26回.本願寺道路②(2015/7/15号)
本願寺道路の建設という重荷を背負わされた東本願寺は、京都から北海道への道中、建設費をまかなうために道々で寄付を募りながら旅を続けます。神道の盛んな秋田藩での妨害行為や、台風によりあわや船が遭難する事態となりましたが、どうにか札幌にたどり着いたのでした。
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第27回.本願寺道路③(2015/7/15号)
道路建設に当たり一番の問題となったのが、人夫の確保でした。幸い、仙台藩の支藩である亘理伊達藩が有珠に集団入植しており、彼らを雇い入れることに成功します。さらに地元のアイヌを多数雇用し、東本願寺のお坊さんと門徒たちも加わり、平民・士族・アイヌ・僧侶という日本史上唯一となる組み合わせによる共同事業が始まりました。
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第28回.本願寺道路④~廃道から地下鉄へ(2015/8/15号)

本願寺道路の完成からほどなくして行われた明治天皇の真駒内牧牛場への行幸に合わせ平岸~真駒内間の道路が整備されると、本願寺道路は次第に廃れていきます。しかしながら、大正6年定山渓鉄道の建設が始まると、本願寺道路は新たに線路を敷くにあたりかっこうの土台となり、鉄道としてよみがえることになるのでした。

第29回.本願寺道路⑤~本願寺道路をゆく(2015/9/1号)

本願寺道路建設から一世紀半近くが経過し、今ではほとんど痕跡は残っていませんが、わずかに簾舞地区にその面影が残っています。本願寺道路を歩き、当時に思いをはせてみました。