豊平区でもあった札幌空襲③遠足の日

米軍艦載機が札幌方面に向かった昭和20年7月15日、その日は豊平小学校(当時は国民学校)の遠足の日でした。当時、同校の3年生だった池上芙沙子さんは『池上商店物語:少女の目で見た昭和史』にこの日の記憶を詳細に綴っています。

遠足の目的地は天神山で、出発してから1時間ほどで全員が頂上に登りつめたころ、突然サイレンが鳴り響きました。

 

『「警戒警報発令。全員ただちに集合」担任の緊張した声に生徒たちは騒然となった。

ー敵機がくる。どうしようーたすき掛けにしていた防空頭巾の紐が解けなくて泣き出す女子もいた。一人が泣き出すと、つられて鳴き声が広がっていく。』

 

児童たちは、引率する先生にしたがって天神山を下り、平岸街道から豊平方面へ向かいました。当時の街道は真ん中に掘割(平岸用水)が流れ、道の両側にはりんご園が広がっていました。その日の池上さんは真っ白いブラウスに、薄桃色のズボン。背中には真っ赤なリュックサックを背負い、当時としてはハイカラないでたちでした。そこに、悪ガキ二人がやってきて

 

『「俺ら、土とか砂利とかと似た服着てるもな」

「お前ひとり、目立つ格好してるもな。空から見たら、いっぺんだべや」

「狙い撃ちださ」

「お前やられても俺ら助かるよな」』

 

と憎まれ口を叩いて走り去りました。不安になった池上さんは、

 

『「白い服に真っ赤なリュックだから、空の敵機からは大きな林檎に見えますように。戦士したお父さん、守ってください」自分なりの理屈をつけて祈った。涙を飲み込んで歯を食いしばった。防空頭巾に蒸れて汗だくになりながら、ただひたすら走った。・・・街道の角に救急袋と水筒をバッテンがけにした祖父が待ち構えていた。「おじいちゃん」ほっとして声をだしたとき、私の肩に先生の手が添えられていることに気づいた。・・・祖父と二人で先生が仲小路を曲がるまで見送った直後、サイレンが空襲警報に変わった。祖父は怯える私を抱きかかえ、裏の空き地にある防空壕へ転がるように飛び込んだ。』

 

『「芙佐子。ああ、無事で良かった」暗闇の中から母の声がした。目がしだいに慣れてくると、母の両腕の中にいる妹弟や、隣近所の人たちも息を潜めているのが見えてきた。どのくらい経っただろう。サイレンも警戒警報にもどり、それも鳴りやんだ。一人ずつ防空壕をでた。まぶしさに目を塞ぐ人、からだを動かす人、深呼吸をする人。そのとき、私のおなかが「グー」と鳴った。みんなの目がいっせいに私へ注がれた。居合わせた人々はやっと笑いを取り戻し、それぞれの家へ帰っていった。』

 

札幌の上空に米軍機が来て、丘珠の農家で死者が出たのは、この遠足の日でした。

 

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