平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊤別れの言葉すら伝えられず

2016年6月6日北海道新聞朝刊27面より
2016年6月6日北海道新聞朝刊27面より

第2次世界大戦中、中部太平洋のメレヨン島で犠牲になった道内出身の約1400人を追悼する慰霊祭が昨日、札幌護国神社で行われました(詳しくは本日の道新朝刊27面をご覧ください)。

 

メレヨン島では、日本兵約6500人が送り込まれましたが、補給を無視した無謀な作戦の結果、5000人以上が栄養失調や病気で亡くなっています。

 

その中の一人が、平岸(東裏)出身の佐藤栄吉です。

郷土史『平岸百拾年』に、佐藤栄吉の生い立ちと亡くなるまでの経緯が詳しく書かれています。

 

大正9年、栄吉が満一歳の時、倶知安から東裏に引っ越してきました。平岸小学校を卒業後、両親のりんご栽培や畑仕事を手伝いながら、青年学校に通います。妹チセによれば、野良仕事の始まる前の早朝訓練や、仕事が終わった後の夜間学習にも欠かさず出席し、暇さえあれば、軍人勅諭や戦陣訓を暗唱していた、まじめで熱心な青年でした。

 

昭和16年、徴兵検査を受け甲種合格、翌年旭川の第七師団に入営、わずか一ヶ月の訓練を受けただけで満洲へ派遣されます。平岸小学校の校庭の御真影の前で始まった壮行式で、栄吉は出征兵士を代表してあいさつしました。

 

しかし、母フジは見送りに出ず、自宅から出ませんでした。「人前で笑顔で息子を送り出す自信がなかったのでしょう。かげでどんなに泣いたか」とチセさんは涙ながらに語っています。出征は名誉のこととされ、母親であっても人前で泣くことは許されない時代でした。

 

平岸街道に沿って、旗行列が村境の金山家まで続き、万歳のどよめきの中を、軍歌に合わせ勇ましく行進し、栄吉らは故郷をあとにします。

 

栄吉が、戦場から家族にあてた手紙がチセの手で大切に保存されています。どの手紙にも「多忙なるに任せて無理をせぬよう」という言葉が書き添えられ、母親へのいたわり思いが伝わってきます。

 

最後の便りになったのが、昭和19年に届いた「益々元気で愉快に過ごして居りますから御安心ください。皆様によろしく御伝えください」という簡単な文面でした。

 

戦後20年以上経ってから、満洲からメレヨン島に移動する途中の船中で、上官の命により同じ文面が兵士たち全員に書かされたことが判明します(昭和41年アサヒグラフ6月号より)。別れの言葉すら、自由に伝えることができないまま、兵士たちはメレヨン島に送られたのでした。

 

続きはこちらから→平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊦餓死の島

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