平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊦餓死の島

佐藤栄吉(平岸出身)たちが、メレヨン島に向かった昭和19年は、太平洋での敗戦が続き、制海権を失いつつある状況でした。

 

大本営は、絶対国防圏を定め、その中核としてサイパン島を設定。中国大陸に展開していた陸軍を前線の島々に送り込み始めます。

 

そのひとつが、太平洋ミクロネシア連邦の小さな環礁メレヨン島です。

満州からの輸送の途中でも敵潜水艦の襲撃を受け、僚船を何隻も失いながら、昭和19年4月にはメレヨン島に到着します。

 

陸海軍合わせて6500人からなる守備隊を待ち受けていたのは、圧倒的な物量に勝る米軍による空襲と艦砲射撃でした。この襲撃で飛行場と飛行機は破壊され、持ち込んだ食料はほとんどが焼きつくされました。

 

米軍はこの島を攻略すること無く、物資を焼き、無力化したうえで、その先へ侵攻を続けます。制海権を握った彼らにすれば、わざわざ犠牲を出して攻略しなくても干からびて死ぬのを待てばいいという合理的な考え方でした。

 

対する日本は、制海権を失っている状況で、自力で食料を確保することが困難な小さな島に大部隊を進出させており、補給無視・人命軽視といった典型的な悪弊が伺えます。

 

取り残された日本軍を待っていたのは、食糧不足です。過去の北海道新聞の記事から生き残った人たちの証言を集めてみます。

 

『ウジ虫を奪い合い(2005年1月15日の北海道新聞朝刊35面)

一六○センチ、六○キロの甲種合格の体が、半分近くまでやせ細った。三二キロ。敵は米軍ではなく、飢えだった。一人五十グラムのコメが、一日の支給食糧のすべて。それもすぐに底をついた。農耕班がサツマイモやカボチャを育てたが、さんご礁の小さな島では大勢の兵を養うだけの実りは望めない。畑ではたびたび盗難が発生する。犯人は数日で分かる。便が違うからだ。犯人には絶食の罰が下る。

「島の守り神」といわれていた一メートル級の大トカゲは、すぐにいなくなった。人さし指ほどのカナヘビは、焼くと縮むので生で食べた。落ちたヤシの実に付くウジ虫は甘味があり、奪い合うようにして食べた。

頭には、食べることしかない。ネズミの穴がどこにあるか、ヤシガニがどこに出るか。故郷の思い出や家族の顔は浮かばなくても、正月に食べたぼたもちや母のつくる三平汁を夢に見る。

体力のない者、食べ物を確保する技術のない者から倒れる。さっきまで話をしていたのに、気付くと冷たくなっている。埋葬する穴を掘る体力もなくなり、放置された。

 

 

『食糧はネズミ、ヤドカリ、木の葉(2009年12月8日の北海道新聞朝刊21面)』

「これが島に持っていった備忘録です」。札幌市豊平区のマンションで、武田賢司さん(88)が64年前の手帳を大事そうに広げた。ネズミ100キロカロリー、ヤドカリ100グラムが80キロカロリー、木の葉8キロカロリー-などと書いてある。

「みんな食べましたよ。木の葉はいろいろ口に入れたけど、下痢してだめだっていうのもありましたね。成人なら1日2千キロカロリーは必要でしょ。木の葉をいくら食べたって話にならない…」

極限の飢餓の中、食料庫に忍び込んで監視兵と格闘になる兵士も現れた。「明くる日に銃殺ですよ。かわいそうと思ったが仕方がない。これ以上無理とあきらめて手りゅう弾や銃で自決した兵士もいました」と武田さん。

 「ネズミは最初、皮をむいて焼いていたんですが、投げた皮を拾って仲間が食う状態になった」。当時、小隊長(少尉)だった全国メレヨン会の元会長柿本胤二(たねじ)さん(88)=札幌市、トヨタカローラ札幌相談役=にも、飢餓の記憶は鮮明だ。

 「ネズミが命を救ってくれた。わなを自動化したやつがいたんです。それでも何日かに1匹でした。木の葉で腹を膨らませ、靴のクリームをなめるのも出てきた。道徳心とか友情はなくなっていた」

 

 

佐藤栄吉は、上陸直後の爆撃で足を負傷。薬も包帯もなく、傷口にウジがわいて、自力で食料を確保することもできず、徐々に衰弱し、昭和19年10月アメーバ赤痢で亡くなりました。

 

栄吉の死が家族に知らされたのは、敗戦から2ヵ月余りがたった昭和20年の10月の末でした。そのころ、戦地から帰還してくる兵士たちがぽつぽつある中で、栄吉の両親は農道に人の影を見るたびに仕事の手を休め、その人の姿を追いました。夕暮れ、毎日の日課として、夕闇の道にじっと立ったまま動かない母。どれだけ息子の帰りを待ちわびていたのかと栄吉の妹チセさんは郷土史『平岸百拾年』の中で語っています。

 

栄吉の死は、栄吉の友人が直接訪れて伝えられました。形見の時計と財布を届けてくれた友人に、栄吉の父と母は帰ってきたとき息子に食べさせるのだと、大切にむろにしまっていたナシやブドウを出して、息子だと思って食べてくれと友人に頼んだそうです。

 

メレヨン島に派遣された陸軍約3200人の戦病死者は総計2419人で死亡率は75%。しかし、将校は33%、下士官は64%、兵卒は82%と、“階級差”がありました。陸軍とほぼ同数駐留していた海軍も戦病死者2381人で死亡率は74%。ただし、階級ごとの死亡率は出ていません。この理由は、陸軍では米の配給量に階級差が設けられたことによります。

 

2009年12月8日の北海道新聞朝刊21面の記事によれば、

『昭和19年年11月になると米が1日100グラムに減らされる。だが、下士官は下士官の仕事があるから30グラム、将校は体面があるから50グラム増やす-と“命令”が出た。武田さんは下士官の末端の伍長だったが、それを耳にした時、「一緒に死ぬのが軍隊じゃないのか」と怒りがこみ上げた。「けど、こうも考えました。将校が先に死ねば烏合(うごう)の衆になって世界に恥をさらす。指揮官がネズミをあさっている姿を見られたら威厳もなくなる、と」。将校が生きるなら兵士は死ぬしかない-同じ軍隊に属しながら、そんな感情まで芽生えた飢餓の島。100人いた武田さんの中隊の生存者は18人だった。』

 

 

メレヨン島の最高指揮官だった北村勝三陸軍少将は、帰国後多数の部下を死に至らしめた責任は自分にあるとして、全国の遺族を訪問して陳謝したあと、終戦から2年後の昭和22年8月15日、割腹自殺を遂げました。

 

 

 

前回の記事はこちら→平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊤別れの言葉すら伝えられず