なぜ平岸はりんごの産地となったのか?キーワードは”平岸の地質と気質”

昨日は、札幌建築鑑賞会主催による「平岸の歴史とリンゴ」講演会がサッポロ珈琲館平岸店で行われました。

 

このお店は、昭和13年にりんごの選別場と貯蔵庫を兼ねた施設として建てられたもので、平岸でも残り少ない札幌軟石でできた大変趣きのある建物です。

 

講師は、平岸育ちのりんご研究者で、弘前大学名誉教授の齋藤健一先生、私は不肖の身ながらゲストコメンテーターとして参加させていただきました。

齋藤先生からは、ご自身の思い出を振り返りながら、平岸のりんごの歴史、そして日本のりんごの栽培史について大変貴重なお話をしていただきました。

 

主催者であるS氏からは、平岸界隈のりんご倉庫などの歴史建造物についてのご紹介がありました。

S氏は、平岸がりんごの産地になった手がかりとして、”平岸の地質と気質”という大変的を射たキーワードを使われていましたので、こちらでも引用させていただきます。

 

まず、”平岸の地質”という観点で見ると、平岸は平岸面とか旧豊平川扇状地という言葉で言われるように、1万年以上昔の氷河時代の豊平川によって作られた扇状地であり、土地が痩せており、水はけがよいという特徴があります(平岸の歴史を訪ねて~自然史編参照)。

 

明治4年岩手県水沢から移住した人々は、平岸で郷土の特産品であった麻を植え、生計を立てる計画でした。このため、明治のはじめ頃平岸は”麻畑村”の名で呼ばれていました。

余談ながら、この麻畑の地名は南平岸駅隣のマックスバリューがある一帯(平岸3条11丁目から13丁目のあたり)の電信柱に貼ってある電柱番号に残されています(詳しくは、平岸の歴史を訪ねて~入植編参照)。

 

しかし、この計画は平岸の土地が痩せていたため麻が十分に育たず、うまくいきませんでした。

入植から10年以上たった明治16年―それは、平岸村人にとって最大の苦難のときでした。

バッタの大群が札幌の街を覆い、さらに追い打ちをかけるように樽前山が噴火。火山灰が札幌にも降り注ぎました。

 

このころには、明治4年に入植した人々の半数以上が平岸を離れるなど、入植以来最大の危機が村に訪れます。

そのとき、救いの神さまとして、明治8年に開拓使から配られたりんごの木が結実するのでした。

一般に、りんごは苗木から実がなるまで10年弱かかります。

 

当時の人々は、りんごがどんなものか知らないまま開拓使に言われるままに植えたに過ぎませんでしたが、赤々とした健康的な見た目、さらに口中に広がる甘い果肉に舌鼓を打ったに違いありません。

 

麻の栽培には不適な平岸でしたが、土地が痩せて水はけが良いという特徴はりんご栽培に最適であり(齋藤先生談)、またりんご一つの値段がそば一杯と同じぐらいというほど、りんごは商品力のある作物となり、文字通りりんごは”金のなる木”となったのでした。

 

水沢は偉人の街としても知られ、高野長英・斎藤実・後藤新平といった日本史の教科書には必ず載っている3人を生み出しており、極めて文化水準の高い街でした。

平岸にも、この3人の親戚関係にあたる人々が入植しています。

こうした水沢の士族階級、すなわち知識階級が平岸の知的文化や風土を作り出し、新しい物に対する挑戦の気概に富み、知識の吸収に熱心であるという平岸の気質が生まれたのです。

明治9年にクラーク博士が札幌農学校で教鞭をとると、平岸の入植者もクラーク博士から教えを請い、積極的に洋式農法を取り入れました。

 

こうしてみると、”平岸の地質と気質”が、平岸をりんご産地と成さしめたということがお分かりいただけましたでしょうか?(ガッテンガッテン)

 

なお、りんごの歴史については拙ブログ「ロゴマークに見るりんごと北海道の歴史」で一風変わった見方で書いてありますので、よろしければご覧ください。

 

今回、はじめて札幌建築鑑賞会さんのイベントに参加させていただきましたが、大変中身の濃い、大人の遊び感満載の充実したイベントでした。

主催者のS氏が発信されているブログ「札幌時空逍遥」では、現在平岸界隈の歴史を取り上げており、札幌版ブラタモリといえるクオリティですので、興味のある方は、ぜひお読みください。

 

※写真は札幌時空逍遥さんから転載させて頂きました。

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