定山渓鉄道は氷河期の豊平川の流れに沿って作られた?地質と鉄路の関係を探る

 1月25日に藤野地区センターで開催する「むかしむかし 定山渓鉄道が走っていたころのおはなし」が迫ってきました。この講演では、「札幌の開拓は藤野の山から始まった? 地質と古地図で探る定山渓鉄道前史」と題し、地質と地形が過去の歴史、そして現在にどのようにつながっているのかをお話する予定です。

 

 さて、「5万分の1地質図幅」というのがあります。その名の通り、5万分の1の縮尺で作られた地質図です。国内の資源調査などを目的として、主に昭和20年~30年代に作られました。札幌近郊の5万分の1地質図幅が刊行されたのは昭和31年頃。地質図を見ると、定山渓鉄道の路線が記されています。60年以上前に作られたものですので、ある意味古地図とも言えます。

 

 この地質図をよく見ると、基本的に定山渓鉄道が白地に青丸で塗られた段丘堆積物の上を走っていたことがよくわかります。段丘堆積物とは河川が運搬した土砂でできたものですが、この場合は氷河期の豊平川が運搬した堆積物になります。氷河期の豊平川は今とは異なるルートを流れていました。すなわち、石山陸橋を越えて、地下鉄南北線真駒内駅~澄川~天神山~平岸へと流れていたと考えられています。つまり、地下鉄南北線沿いということになりますし、平岸以南においては、定山渓鉄道跡に地下鉄南北線が建設されていますから、定山渓鉄道は氷河期の豊平川の流れに沿って作られたということになります。

 

 このことは、偶然の要素(大正2年の洪水とか、政治的理由など)と必然の要素があります。鉄道はその特性上、できるだけ高低差が少ないルートを走る必要があり、また洪水などの災害に対するリスクを抑え、できるだけ地盤の良い土地を走る必要があります。氷河期の豊平川沿いのルートを走れば、高低差が少なく、今の豊平川の洪水の被害に遭うこともない理想のルートといえます。

 

 ただ個人的にツボったのは、そこではありません。基本的に定山渓鉄道は段丘堆積物上を走っていますが、すべてがそうではありません。どうしても異なる地質、例えば溶結凝灰岩や安山岩などの上を通らなければならないところもあります。今回、調べて面白かったのが、地質が異なるところでは、それに応じて定山渓鉄道も特殊なルートや構造になっているということです。地質が違うということは、地形にもギャップ(高低差)が生まれます。そこをどう克服したのか?ここが今回の講演のキーポイントのひとつになりそうです。

 

※1月18日北海道新聞朝刊より↓

 1918年(大正7年)から1969年まで札幌中心部と定山渓温泉を結んだ定山渓鉄道の思い出を語る講演会「むかしむかし 定山渓鉄道が走っていたころのおはなし」(藤野地域に図書館づくりをすすめる会主催)が25日午後1~3時、札幌市南区の藤野地区センター(藤野2の7)で開かれる。15回目。「札幌の開拓は藤野の山から始まった? 地質と古地図で探る定山渓鉄道前史」と題し、地域新聞「道新りんご新聞」を発行する北海道新聞永田販売所(札幌市豊平区)の伴野卓磨所長が講演する。会費200円。問い合わせは同会の吉野さん(電)011・591・7066へ。