農地改革は現代の街並みにどう影響を与えたのか?澄川を例に

道新りんご新聞1月15日号の平岸の歴史を訪ねてでは、農地改革を取り上げました。GHQの最高司令官マッカーサーの指示により、①不在地主の小作地のすべて、②在村地主の小作地のうち、4町歩を超える全小作地、③所有地の合計が12町歩を超える場合の小作地が改革の対象となり、事実上タダ同然で買い上げられ、実際の小作者に安く売り渡されました。

 

紙面では平岸の例を詳しく書きましたが、むしろ影響が大きかったのは澄川地区でした。というのは、澄川地区は明治28年にニシン漁で財を成した茨木与八郎が現在の自衛隊駅付近から澄川市街にかけて土地を取得し買い足して、茨木農場を大規模に経営した不在地主の土地だったからです。

 

昭和8年には茨木与八郎が定山渓鉄道に用地を提供し、停留所が開設。駅名は、茨木の姓を取り、『北茨木駅』とされました(茨木駅が既に大阪にあったため)。

 

終戦後に実行された農地改革により、茨木農場の全小作地は買収され、消滅しました。茨木農場で小作を営んでいた酒井スイさん(故人)は郷土史『平岸百拾年』の中で、「私は日本が戦いに負けたおかげで農地解放が行われ、この土地が自分の土地になったのだからマッカーサーに感謝している」と評価しています。しかし、茨木農場という大きな農場が多数の小作人に分割されたため、農地は細切れとなりました。昭和30年代に入り、宅地化が進行すると、細切れの農地はそのまま細切れの住宅地・商業地となりました。結果として澄川地区は自作地の多かった平岸地区に比べ、大型の商業施設や病院などのないごちゃごちゃとした街並みとなったのです。

 

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