拓銀の融資からはじまったハドソンの躍進と転落

北海道の経済を揺るがせた拓銀の破綻から11月17日で20年が経過しました。北海道新聞では「拓銀破綻20年」特集として、新資料をもとに破綻に向かう組織内で、懸命に奔走する行員や関係者の動きを描く骨太のドラマが展開されています。

 

拓銀の破綻は、当時平岸を代表する企業だった国内有数のソフトメーカーの経営を直撃しました。ハドソンです。

ハドソンはニセコ町生まれの工藤兄弟、兄・裕司と弟・浩の絶妙の二人三脚で生まれました。裕司は時代を読む天性のカンを持ち、広告宣伝や技術を担当。浩は堅実派で、営業や財務を取り仕切りました。


アマチュア無線ショップからはじまったハドソンは、パソコンソフトの開発も手がけ、高い技術力を活かし、日本を代表するパソコンソフトメーカーとなりました。

1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結びました。ソフトバンクはこれをきっかけに事業拡大に成功し、今日の繁栄に結びついています。以来現在に至るまで孫正義社長は工藤さんを「恩人」と呼び、特別な関係が続いています。

 

 

転機は1984年。前年に任天堂から発売されたばかりのファミリーコンピューターに「付加価値を生む新時代の風」を感じとり、浩は裕司に進言しました。「任天堂のファミコンは伸びる。他社に先駆けて、対応ソフトをつくろう」。

 

しかし、当時のハドソンにはソフト開発のノウハウはあったものの、工場がありませんでした。そこで任天堂の工場に製造を発注することにしましたが、前金で4億円の費用が必要となりました。

 

当時のハドソンの年間売上が6億円。そんな大金を自前で用意できるはずもなく、拓銀に資金援助を頼みました。しかし、担保もない小さな会社への融資を簡単に引き受けてくれるはずもありません。浩は、出張先から千歳空港に戻った拓銀の石黒直文常務を浩が待ち受け、「自分の車に乗せ、融資を拝み倒した」という武勇伝の末に融資に至りました。

 

二人の決断は当たりました。「ロードランナー」「ボンバーマン」などヒット作を連発。一躍、ハドソンは日本を代表するゲームソフトメーカーとなりました。

 

ハドソンは、自由な社風と羽振りの良さで知られ、当時入居していた平岸グランドビルはほぼ全フロアがハドソンとなり、通称「ハドソンビル」と呼ばれ、1986年には「貸切ジェット機でハワイ旅行」も行われました。

 

しかし、1997年の拓銀破綻がハドソンに大きな打撃を与えます。開発費などの資金調達に苦労し、守勢の経営を余儀なくされました。膨大なゲーム開発費を投入できる東証一部上場のスクウェアなど業界大手との業績格差は次第に広がっていきました。

 

安定した開発資金を求め、2000年にはナスダックへの上場をはたし、携帯電話向けの配信ゲームに注力しましたがヒット作に恵まれず、2005年にはコナミの子会社となり、2012年にコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併され、ハドソンは解散に至りました。

 

かつて「ハドソンビル」と呼ばれた平岸グランドビルからも関連会社は全て撤退し、トレードマークのミツバチ「ハチ助」も姿を消してしまいました。

 

ハドソンブランドは完全に消滅したものの、「桃太郎電鉄」シリーズの最新作は今年任天堂から発売、

「ボンバーマン」シリーズ最新作の「ボンバーガール」もまもなく発売される予定です。ハドソンはなくなっても、その素晴らしい作品は今でも受け継がれています。