沼田安太郎の悲劇 二百三高地陥落二時間前の死

平岸5条7丁目にある平園公園の一角に三基の石碑が並んでいます。開拓の功労者・重延卯平を称える碑、馬頭観音碑、そして沼田砲兵軍曹忠霊碑です。

 

この地域はかつて東裏の名で呼ばれていました。明治15年、青森出身の沼田喜代松夫婦が東裏に入植し、その2年後村で初めての赤ちゃん・沼田安太郎が誕生しました。

 

開墾のつらい日々の中で生まれたこどもは村民にとって何よりの喜びだったに違いありません。

安太郎は17歳で旭川の第七師団砲兵隊に入隊しました。その3年後の明治37年日露戦争が勃発。旅順要塞をめぐる激戦により、乃木希典将軍率いる第三軍は近代要塞の威力を目の当たりにし、大損害を出しました。

 

第七師団も旅順要塞の攻略に動員され、戦力上の要衝となった二百三高地の攻略にあたることになりました。

 

塹壕と地雷原が張り巡らされ、機関銃を備えたトーチカに向かって、11月27日第七師団は突撃を開始。たちまち大損害を出しました。

15,000の兵力がわずか5日間で3,000人にまで減少しましたが、ついに二百三高地を占領しました。沼田安太郎砲兵伍長は第七野砲隊第五砲車長として勇敢に戦い、敵の機関銃を受けて壮烈な戦死をとげました。ときに明治37年12月5日、二百三高地占領の二時間前であったといいます。

 

 

私が「平岸の歴史を訪ねて」の執筆を構想していた3年前、郷土誌「さなぶり 東裏百年ものがたり」でこの悲劇を知りました。

 

日露戦争の犠牲者を悼む慰霊祭を今でも行っているのは北海道でもここだけだそうです。戦争というものは自分たちと関係ないどこか遠くで起こるものではなく、私達が暮らしているごく身近な場所、身近な人達も否応なく巻き込まれていくものであるということを知ってほしい・・・そんな思いで連載をスタートしました。

 

沼田砲兵軍曹忠霊碑の背面には、「故陸軍軍曹松本喜市二十三才 昭和二十年五月五日首里戦死故陸軍兵長佐藤栄吉二十五才 昭和十九年十月二十一日メレヨン島戦死 昭和五十三年十一月二十日合祀ス 東裏親交会々長 重延実」と刻まれています。これは、当初平岸4条6丁目に建てられていたこれらの碑を、昭和53年に現在地に移設した際に、東裏出身の戦死者を合祀したものです。

 

日露戦争から太平洋戦争にかけての犠牲者を悼むとともに、太平洋戦争後72年にわたって新たな合祀者が生まれなかった歴史を誇りに思います。

 

これまでのブログの中から身近な戦争の歴史や戦跡などをまとめました。終戦の日に、戦争と平和について考える材料になれば幸いです。

 

平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊤別れの言葉すら伝えられず

平岸と戦争~メレヨン島の惨禍㊦餓死の島

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コメント: 1
  • #1

    特殊鋼の原点 (火曜日, 11 5月 2021 11:40)

    十神山は近代を象徴していた。大同戦車隊はそれを知るのを血で贖うのである。