開拓使の2枚看板エドウィン・ダンとルイス・ベーマー

9月27日さっぽろ10区1面より
9月27日さっぽろ10区1面より

9月27日のどうしん生活情報版さっぽろ10区1面は、エドウィン・ダン特集でした。

 

「北海道酪農の父」として知られるダンが真駒内に「牧牛場」を開設してから今年で140周年になります。

 

ダンに比べて、今一つ影が薄いのがルイス・ベーマーです。

 

しかしながら、ベーマーの功績はダンに勝るとも劣らないものなのです。

ベーマー(前列中央左)とダン(中央右) お雇い外国人と余市リンゴより
ベーマー(前列中央左)とダン(中央右) お雇い外国人と余市リンゴより

この二人は開拓使の“2枚看板”として活躍しました。

 

その様子をよく物語っている写真がこちら。農業現術生徒と呼ばれる将来の農業指導者候補に交じって、中央にベーマーとダンが並んでいます。

 

ベーマーは、果樹・野菜・穀物といった農作物の専門家として来日。

 

アメリカをはじめとする諸外国から様々な農作物を輸入しました。

 

小麦や大麦、豆類などの雑穀や、アスパラガス、人参、玉葱、馬鈴薯などの野菜、リンゴやサクランボ、ブドウ、梨、桃といった果樹を、東京青山の官園を経由して、北海道に持ち込み、栽培方法を指導し、北海道に根付かせることに成功します。

 

明治8から10年にかけて、平岸村にリンゴの苗木425本を配布。これがきっかけで、平岸は日本を代表するりんご産地となり、平岸りんごはウラジオストックやシンガポールにも輸出されています。

 

その他にも、野生のホップを発見して開拓使にビール工場建設を提案したり(後のサッポロビール)、豊平館や清華亭の前庭を造るなど造園家としても優れた手腕を発揮しました。

 

これほどの業績がありながら、二人の知名度には圧倒的な開きがあります。

 

googleで検索してみると、「エドウィン・ダン」では約3千6百万件ヒットするのに対し、「ルイス・ベーマー」では781件しかヒットしません。

 

ダンは、開拓使を辞めた後も、外交官になり、新潟で石油会社を設立し、日本人と結婚して亡くなるまで日本に暮らしました。

 

また、ダンが去った後の真駒内牧牛場を引き継いだ町村金弥は、師匠でもあったダンの恩を忘れず、金弥の五男・金吾の北海道知事時代には、牧牛場事務所を移転し、エドウィン・ダン記念館として公開され、今に引き継がれています。

 

一方のベーマーは、明治15年開拓使の廃止に伴い、横浜へ移り住み、園芸賞として成功を収めましたが、体調を崩し、ドイツに療養のため帰国、そのまま亡くなっています。

 

司馬遼太郎は、『歴史上の人物で宣伝機関をもっていたひとが高名になる』という説を唱え、実例として、『義経は「義経記(ぎけいき)」をもち、楠木正成は「太平記」をもち、豊臣秀吉は「太閤記」をもつことによって、後世のひとびとの口に膾炙(かいしゃ)した』と書いています。

 

エドウィン・ダンとルイス・ベーマー。

現代へと受け継がれる北海道の基盤を形作った点で、二人の業績は比類ないものの、宣伝機関の有無が知名度に決定的な差をつけてしまったのかもしれません。

 

 

※10月10日の天神山文化祭で行う公開座談会「なぜ平岸はりんごの産地となったのか?キーワードは“石と水”」では、平岸りんごの歴史をお話する予定です。詳しくは、「平岸の歴史を訪ねて in 天神山文化祭」をご覧ください。

 

※関連記事:北の華麗なる一族「町村家」~酪農と政治の系譜

 

※関連ページ:平岸の歴史を訪ねて開拓編~第37回四ヶ村連合用水と竜神様①~エドウィン・ダンと真駒内牧牛場