ブラリンゴ アンパン道路編#14.樋口季一郎の無念 自責の念晴れず

『日本のいちばん長い日』として知られる71年前の今日、東京では、一部陸軍将校が、降伏をよしとせず玉音盤の奪回を図り、クーデター騒ぎが起きましたが、札幌でも、一つ間違えば、不測の事態が起きていたことはあまり知られていません。

 

現在、「つきさっぷ郷土資料館」として活用されている月寒東にたたずむレンガ造りの洋館は終戦時、北の守りを担った旧陸軍第五方面軍の司令官・樋口季一郎中将の官邸でした。

 

8月14日深夜、官邸1階の和室は騒然となっていました。

「刀を抜くとは何事だッ」

樋口は、取り乱して日本刀を振り回す将校を一喝しました。この将校は、顔見知りの新聞記者から「日本は降伏するのではないか」と問われ、血相を変えて、飛び込んできたのです。

 

将校「閣下、どういうことです?」

樋口「そうか、分かったか。明日になればわかる。良い話は早いほうがいいが、悪い話は遅いほうがいい」

 

数時間前、樋口は天皇がポツダム宣言の受諾を決めたと知らされていました。官邸には、軍参謀ら約10人が集まり、樋口は収まらない将校らに冷酒を勧め、一晩飲み明かしました。

 

樋口の胸には、戦場で死んだ数多くの兵士の無念が重くのしかかり、これ以上の犠牲を避けたかったと言われています。

除幕式に参加する樋口(左から2人目)
除幕式に参加する樋口(左から2人目)

中島公園に隣接する護国神社の敷地に、「アッツ島玉砕 雄魂之碑」と書かれた高さ4メートルの石碑が建っています。

 

1943年5月にアリューシャン列島のアッツ島で戦死した2638人を悼んで建てられたものです。

 

1968年7月29日、石碑の除幕式で撮られた写真には、79歳になる樋口のやせ衰えた姿が写っています。

 

老いのため医師から安静を命じられていましたが,「飛行機の中で死んでもいいから行く。途中で倒れてもいい」と、反対する家族を説き伏せ、当時住んでいた大阪から参加しました。

 

アッツ島とキスカ島は、ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦として、1942年に占領。樋口は、「島を守るには兵力の増員が必要」と大本営に訴えていましたが、容れられることなく、アメリカ軍は1万人を超える兵力で上陸。兵に余力がないと判断した大本営は、「アッツ島への増援を都合により放棄する」決定を下します。

樋口はアッツ島の守備隊に「救援作戦は実行不可能」と、涙を流しながら打電したと伝えられています。

 

アッツ島の守備隊長は山崎保代。部下思いで知られ、アッツ島に着任後も約2600人の兵士の顔と名前を1カ月で覚えようと努力したという。

 

山崎は「思い残すことはない。全部隊残らず討ち死にする」と樋口に返電し、4人の子には「どんな道を進んでもいい。立派な人になってください」と遺書を残しました。

 

18日間にわたる激闘の末に日本軍は壊滅。太平洋戦争で初めて「玉砕」の言葉が使われました。日本軍の死者数2638人のうち、道内出身者は864人。負傷して捕虜になったのはわずか29人。

 

アッツ島を失い東方のキスカ島の兵士が取り残された形になりましたたが、大本営は樋口の要求で撤収作戦を計画。守備兵約5200人が濃霧に紛れて素早く撤収することに成功し、「奇跡の撤収作戦」と呼ばれました。

 

しかし、キスカの成功があっても樋口の自責の念は晴れませんでした。終生、公の場を避け、アッツ島玉砕の石碑除幕から2年後の70年、樋口は82歳でこの世を去ります。

 

戦後、樋口は戦犯としてソ連から逮捕請求がありましたが、連合国側がこれを拒絶。樋口は回想録に「在米ユダヤ人のお陰だろう」と記し、同じページには自らのことを「私自身はとんでもない低級な人道主義者であった」と評しています。

 

故人の部屋には、道内出身の画家から贈られたアッツ島を描いた水彩画がかけられ、晩年の樋口は毎朝毎晩その絵を眺めるのを日課としていました。

 

※「戦後70年 北海道と戦争 上巻」(北海道新聞社)より引用。最寄りの道新販売所、またはこちらのページからご注文いただけます。