平岸の歴史を訪ねて第17回では、アイヌに対する和人の横暴な仕打ちの例として、当時札幌に暮らしていたモニヲマを取り上げました。
妻を番人の妾にとられ、乳児は餓死し、モニヲマ本人は浜での強制労働に借り出され、老母も飢えと寒さで亡くしてしまいます。
重要な事は、和人による虐待を誇張するためにこのケースを取り上げたのではなく、このような行為が当時の北海道では日常的に行われていたということです。
私は歴史の専門家でも、アイヌ民族の専門家でもありませんが、このシリーズの執筆のために江戸時代のアイヌと和人の関わりを調べると、うんざりするほど似たような事例があったことに気づかされました。
松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』の中で、アイヌに対する虐待事例を憤りをこめて書いています。代表的なものを紹介すると、
■石狩上川のヲテコマの例
ヲテコマは妻と娘と三人でくらしていたが、妻を番人に強奪され、それに抗議した所、反対に殺されかけたので遠くへ逃げた。妻は夫のもとへ行きたいものと何度も逃亡を計ったが失敗、叩かれてその傷がもとで死んでしまった。頼りにする娘も支配人にとられ、それを恨んで入水しようとしたが、すんでのことで人に助けられた。
■石狩川下流のエカシベシの例
エカシベシは夫婦で運上屋に雇われていたが、気だてのよい妻に番人が非道な恋をしかけ、夫を遠くの漁場にやり妻を強奪してしまった。すでに妻はエカシベシの子を宿していたが、番人はこれを堕胎させようとイボタとトウガラシを煎じて飲ませたため、彼女はやがて死んでしまった。その話を伝え聞いたエカシベシは、このような所で生き延びたところで何の甲斐があろうかと、大木に縄をかけ「かひがひしくも」縊死してしまった。
■石狩川筋のヤエレシカレの例
石狩川筋にヤエレシカレという美しい二九歳の女性が夫と睦じくくらしていた。これに目をつけた番人が例によって夫を遠くへやり、彼女をわが物としてしまった。ところがこの番人は梅毒を病んでおり、感染した彼女は見捨てられてしまった。鼻が落ち体もただれてきたので、一度は入水を考えたが、同船の者になだめられ、思い直して母といっしょに永からぬいのちを養っている
ヤエレシカレは、「美面よろしくして頗る艶色有りし」というほどの美貌でしたが、番人の毒牙にかかって黴毒をうつされ、「身体半ば腐爛し居て其辺りに近よるも臭気に堪がたかりし」という無残な状態に陥りました。
見かねた武四郎は、烟草一把、米五合、針五本、糸五繰ずつを手渡して慰め、箱館奉行に直訴し、彼女のくらしのてだてをとっています。
このように番人の毒牙にかかったアイヌ女性の事例を、武四郎は『丁己日誌」の石狩川沿いだけで、ざっと二十四、五人と記しています。武四郎ら幕府役人はこの事態を知り、強い怒りと義憤のもとで糾弾しますが、ほとんど改善されることなく明治を迎えることになります。