北の華麗なる一族「町村家」~酪農と政治の系譜

衆院北海道5区補選は、自民党新人の和田義明氏が当選となりました。町村信孝の弔い選挙として注目を集めましたが、町村家は、北海道の華麗なる一族といえます。

 

町村信孝の祖父・金弥は、幕末に越前府中の奉行職の家に生まれますが、ほどなく明治維新が起こり、武士階級は消滅します。

 

明治の新時代を学問で身を立てようと12歳の若さで東京に出て、奉公の傍ら夜学に通い、工部大学校を受験し合格したものの私費合格であったため、結局授業料の要らない札幌農学校に入ります。

 

そこで金弥は、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾といった後に明治の日本を代表する知識人となる同期らとともにクラーク博士に学びました。

 

 

 

札幌農学校寄宿舎の洋食(開拓記念館より)
札幌農学校寄宿舎の洋食(開拓記念館より)

札幌農学校は、北海道に洋式農法を普及させるのが目的でしたから、寄宿舎の食事は完全な洋食であり、寮の規約で「米飯を食すべからず」と定められていたほどでした。

 

当然、金弥ら生徒たちも農業の西洋化の信奉者となり、北海道での米作りを真っ向から否定しました。寒冷地である北海道で米は育たないという決めつけのもと、主食を小麦とする方針がとられました。この方針に逆らって、米作りを試みた屯田兵が牢屋に入れられるなど、米作りの禁止は徹底したものでした。

 

このような理想主義的な、反面伝統と文化を無視した政策に立ち向かったのは、無名の百姓たちでした。島松村(現・北広島市)に入植した中山久蔵が明治6年に苦心の末、米作りに成功すると、札幌でもせきを切ったように米作りへの挑戦が試みられ、平岸では重延卯平が米作りを成功させます(平岸の歴史を訪ねて開拓編~第36回東裏の発展④~米作りへの挑戦参照)。

 

エドウィン・ダン
エドウィン・ダン

それはさておき、後の町村家の発展に大きく関わるのが、お雇い外国人エドウィン・ダンとの出会いです。

ダンは酪農・畜産部門のエキスパートであり、その技術拠点として明治9年に真駒内に牧牛場を開きます。

 

明治12年には、家畜の飲料水や農機具の洗浄用、水車の動力用としての水を確保するため、真駒内用水を建設。南区役所裏手の真駒内川から取水し、牧牛場を経て豊平川へ注ぐこの用水路は、札幌でも数少ない現存する用水路として、今でも市民の憩いの場として利用されています(平岸の歴史を訪ねて開拓編~第37回四ヶ村連合用水と竜神様①~エドウィン・ダンと真駒内牧牛場参照)。

 

この真駒内牧牛場をダンから引き継いだのが金弥です。その後、雨竜町村農場を経営。陸軍省の技師を務めた後、大久保町長を10年間務めました。

金弥の酪農家と政治家の2つの経歴を、二人の息子が引き継ぎます。

 

酪農家を引き継ぎ、今に続く町村農場を起したのが長男・敬貴。

政治家を引き継ぎ、北海道知事を三期務めたのが五男・金五。

 

真駒内の郷土本「真駒内物語」によれば、知事時代ヘリコプターで札幌上空を視察していた金五は、真駒内地区の緑の山々が宅地開発のため重機によって踏み潰されている様子を見て、担当部門の官僚を呼びつけ、激怒しました。

真駒内は父・金弥がダンから引き継いだ町村家にとっては特別な土地。

そこを自分に何の相談もなく、踏み荒らされたと感じたのです。

 

もっとも実際に工事が行われていたのは真駒内ではなく、川向かいの川沿地区であり、事なきを得たそうです。

 

金五の次男が昨年亡くなった信孝になります。

もっとも、信孝の生まれは静岡県の沼津市であり、その後大学まで東京で過ごしていますから、北海道とはあまり縁がありませんでした。

 

小選挙区比例代表並立制導入に伴う選挙区調整の際、先祖代々営む町村農場のある北海道5区から出馬し、以降道5区は保守派の地盤となったのです。

 

 

こうしてみると、町村家と真駒内の結びつきは、金五の代で事実上終わったのかもしれません。