りんご編

平岸は戦前には国内有数のりんごの産地として、ウラジオストクやシンガポールなど海外にも輸出されていました。「平岸の歴史を訪ねて りんご編」では、平岸が日本を代表するりんごの産地となっていく経緯や、世界に輸出された栄光とロシア革命や日中戦争といった世界的な大事件に巻き込まれていく苦難の歴史を徹底的に掘り下げてお届けします

 

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第52回.りんごはどこから来た?(2017/7/15号)

りんごの原産地は中央アジア。そこからヨーロッパ・アメリカを経て明治初頭北海道に「洋りんご」が輸入されました。そのうちの一つがカリフォルニア産の「マッキントッシュ」であり、“旭”という日本名で定着。昭和25年、このりんごの品種名と街の発展に期待を込めて、豊平地区の一部が旭町と名付けられました。りんごは豊平区の象徴とされ、区のシンボルマークとなっているほか、ゆるキャラ(こりん)のモチーフにも採用されており、今でも豊平区民に広く愛されています。

第53回.ルイス・ベーマー(2017/8/1号)

明治5年、北海道に洋式農業を普及させるための農業教師として赴任したルイス・ベーマー。ベーマーはりんご以外にもタマネギ、キャベツ、じゃがいも、かぼちゃ、メロンなどといった野菜類を北海道に持ち込み、現在に続く北海道の農業基盤を整えました。

第54回.りんごの伝道師となったサムライたち(2017/8/15号)

日本人にとって馴染みのなかった西洋りんごが短期間のうちに北海道に定着した裏には、開拓使の農業教師ルイス・ベーマーの的確な指導と、その教えを吸収し、農家へ普及させた伝道師となったサムライたちの存在がありました。彼らは、戊辰戦争がなければそれぞれの藩の将来を担っていたであろう文武に秀でた若者たちでした。

第55回.りんご実る(2017/9/1号)

明治8年開拓使から平岸村にりんご425本が配布されます。しかし農家にしてみれば、西洋りんごという見たことも、食べたこともないものを半ば強引に押し付けられ、困惑してしまいました。残念ながらその多くは冷遇され、住居の片隅に乱雑に試植されていたにすぎませんでした。

第56回.金の成る木と水原寅蔵(2017/9/15号)

日本で最初のりんごの民間果樹園は、水原寅蔵によって中島公園に開かれました。その規模は、敷地面積1万坪、りんごの本数700本、収穫年均3万斤(1斤=450グラム)であり、年収に換算すると600円あまりになります。当時、小学校教師の初任給が8円、巡査の初任給が9円という時代ですから、りんごはまさしく金の成る木といえます。明治14年には、明治天皇の札幌行幸の際に水原果樹園のリンゴが献上され、金一封が与えられ、「水原りんご」は高い名声を博しました。

第57回.遊郭経営からりんご栽培へ(2017/10/1号)

すすきのは当時遊郭地帯でした。その中でも一、二を争う遊郭が「北海楼」であり、その経営者が髙瀬和三郎です。髙瀬は、水原果樹園に影響され、平岸に大規模なりんご園を開きました。髙瀬果樹園はその後、その一部が柳田果樹園となり、平岸2条5丁目には大正末に建てられた札幌最古とされるレンガ作りのりんご倉庫が今でも残されています。

第58回.新たなる入植者たち(2017/10/15号)

平岸の開拓は、明治4年の水沢藩士を中心とした62世帯202人の移住に始まりました。当初の予定では、水沢の名産品である“麻”を植え、生計を立てる計画でしたが、平岸は土地が痩せており、次第に収穫も落ち、前途に失望した人々は次々と平岸を離れていきました。かわって平岸に入植してきたのが、札幌中心部で資本を蓄えた商売人たちです。彼らは“平岸第2世代”として平岸の発展に大きく貢献していくことになります。

第59回.りんご景気(2017/11/1号)

第一次世界大戦をきっかけに起こった“りんご景気”。「欧州大戦でりんごの値段は良くなった。普通の年は、一斤(450グラム)一銭五厘か二銭なのに十銭にもなった。」(石田東祐談・平岸百拾年収録)そうで、平岸街道沿いにモダンな屋敷が立ち並ぶ豊かな農村風景は、この時代の好景気によって形作られ、その美しさは久保栄の戯曲・林檎園日記のモデルともなりました。

第60回.新撰組隊士 りんごを統率(2017/11/15号)

北海道で活躍した新撰組といえば函館戦争で戦死した土方歳三や樺戸集治監で剣道教師を務めた永倉新八が有名ですが、他にも元隊士が札幌にいました。開拓使に採用され、のち果樹園を経営した阿部十郎です。北海道果樹協会を発足させて、りんごの普及に大きく貢献した阿部の歩みをたどります。

第61回.海を渡った平岸りんご(2017/12/1号)

明治後期、青森県産のりんごが次第に隆盛となり、平岸りんごを含む道産りんごは大消費地である東京からの距離の遠さなどがネックとなり、次第に押され気味となります。平岸のりんご農家は新たな販路を開拓しようと海外に目を向けました。ウラジオストクです。

第62回.ウラジオストクと林檎連中(2018/1/15号)

平岸りんごを含む道産りんごは戦前、上海やシンガポールなど様々な国や地域に輸出されましたが、その中でも圧倒的に多かったのがウラジオストクであり、明治後期になると道内生産量の実に2割ほどが輸出されていました。なぜこれほどまでの量がウラジオストクに輸出されたのか?そこには、ロシアの貿易政策と平岸りんごの特性が深く関わっていたのです。

第63回.革命に翻弄された平岸りんご(2018/2/1号)

第1次世界大戦をきっかけとしてロシア革命がおこると極東地域はソヴィエト政府を認めない反革命軍(白軍)の根拠地となり、平岸りんごも反革命軍の支配下であったウラジオストクに輸出されました。日本軍も極東での権益確保を狙い軍事出動する事態に陥ります(シベリア出兵)。

第64回.冒険商人 一柳仲次郎(2018/2/15号)

愛知県生まれの一柳仲次郎は一攫千金を夢見てニシン漁に手を出しますが失敗、無一文となり天秤棒をかついで平岸のりんごを売りさばく“かつぎや”に身を落とします。そこで、りんごの商品作物としての価値に気づいた仲次郎は、リンゴの“青田買い”で巨利を博し、北海道を代表する交易商人となり、ウラジオストクなど極東地方で活躍。さらには、シベリア出兵のどさくさに紛れてボロ儲けしました。

第65回.猛威を振るう病害虫(2018/3/1号)

りんご栽培が盛んになり、各地に広がっていった明治20 年代。このころは、りんごの樹齢も若く、病害虫の被害は目立ちませんでした。 しかし明治30 年代に入り、樹齢が10 年を超えるものが多くを占めるようになると、りんごの樹の抵抗力も徐々に落ちてきて、年々病害虫の被害が増えてくる事態となりました。数々のりんご園を廃園にした病害虫の被害と、それに立ち向かった平岸のりんご農家の取り組みを紹介します。

第66回.りんごの神様「島善鄰」(2018/3/15号)

今でこそ青森はりんごの産地として知られていますが、明治末から大正時代にかけて相次ぐ病害虫の発生で10年余りの間に2000ヘクタールのりんご園が廃園するなど、りんご農家は存亡の危機にありました。 この危機を救ったのが農学者・島善鄰(しまよしちか)です。島は経験主義に頼っていた栽培方法を改め、理論と実践にもとづいた近代的なりんご園経営を唱え、青森が今に至るりんご王国となる基盤を作り上げました。 島はその後札幌にわたり、相次ぐ病害虫に疲弊していた平岸のりんご農家を救う救世主となります。

第67回.弘前でりんご修行へ(2018/4/1号)

昭和のはじめ、平岸のりんご農家は、昭和恐慌に苦しんでいました。りんごの価格は以前の3分の1程度にまで下落。加えて、青森りんごが質・量ともに急成長し、高い評判を呼ぶようになりました。この危機を救ったのが、北海道帝国大学助教授・島善鄰でした。昭和9年に平岸果樹組合の主催で島善鄰の講演会を開催。島は明治以来青森県が蓄積してきたりんご栽培のノウハウを何ら隠すところなく披歴しました。昭和10 年には島善鄰のあっせんにより平岸の若手10名が弘前のりんご農家に修行に出向きました。一冬作業を共にし、青森式栽培法を身につけた彼らは帰村後、これをひろめていきました。

第68回.りんごの貯蔵と札幌軟石(2018/4/15号)

白地の壁にウルトラマリンブルーが映える美しい建物として市民に愛されている豊平館。開拓使によって明治13年に建てられました。最初の宿泊者は明治天皇。明治14年の札幌行幸の際の宿泊所として使われました。しかし、明治天皇より先に“宿泊” したものがあります。りんごです。だれが、何の目的でりんごを“宿泊”させたのでしょうか?そこには北海道の開拓事情と厳しい気候が深くかかわっていました。

第69回.りんご倉庫から平岸天神太鼓道場へ(2018/5/1号)

平岸3条2丁目に昭和10年築のレンガ造りのりんご倉庫が建っています。野幌に大規模なレンガ工場の進出が相次いだ大正末から昭和の初めにかけて、札幌軟石に代わってレンガ倉庫が普及していきました。ただ、レンガ造りには軟石造りに比べ断熱性が低く、厳寒期のしばれに弱いという欠点がありました。そこで生み出されたのが「小端空間積み」という北海道オリジナルのレンガの積み方です。この積み方で建てられたりんご倉庫は、後に平岸天神太鼓道場としてよみがえります。